使ノ集ウ場所


 これは、私が数年前に東欧のとある町に立ち寄った時の話である。
 その町は人口一万にもみたぬ、古き良き時代のヨーロッパの風景そのままの
小さい町だった。石畳の道路、煉瓦造りの建築物、町の中心には巨大な鐘を
携えた教会、路地は迷路の様に入り組んでいる。馬車が揺れながら通り、花売り
の少女が籠をもって野の花を配り、人々は一日の疲れをポテトと黒麦酒(ビール)で
癒す――そんな町。
 別段これと言った特徴は無い。ロンドン橋(ブリッジ)もエッフェル塔(タワー)も
建っちゃあいない。ドナウ河が流れているわけでもなければ、闘牛の影も無く、
偉大な音楽家を生み出したなんて事も無い。観光地にはひたすら向かぬ。
 ――そんな町だ。
 だが、私が貧乏旅行をしてまでヨーロッパを巡り歩いていたのは、このような
町との出会いを求めての事だった。醜い欲望丸出しの旅行会社どもに連れられて
行く、当り障りの無い道程。日本人のみで固まって日本語で会話しながら、日本で
何度となく紹介され見知った名所を回る――そのようなものは旅とは呼べぬ。
現地の人間に触れ、現地の物を食べながら現地の言葉で話し合う。高級レストラン
もホテルも無粋の限りだ。それこそ真の『旅』というものではないのか。
 ……とはいえ、必ずしもそれが良いとは言うまい。余所者に対する差別と偏見。
治安の悪さ。文化の違い。そういった理由からいついかなる場所で巻き起こるとも
知れぬハプニングは、大抵の日本人にはリスクがちと大きい。むしろ世間的には
はみ出し者の私のような者にこそ相応しい異国の楽しみ方だ。恋人や家族と楽しむ
海外旅行であれば迷わず前者の旅行をお勧めする。私だって新婚旅行の時にはそう
する予定だ。……無論、相手ができればの話だが。
 とにもかくにも、諸君らの大半が一生行く事も無いであろうその辺鄙な町で
出会った出来事が、今回の話だ。


                    *


私はいたくこの町が気に入っていた。地元の人間は気さくな人々ばかりで旅人にも
寛容だったし、町のそんな空気のせいか夜中になっても陽気さは失われず、かと
いって深夜にもなれば皆明日の仕事のために床に就く。一日がその日の為に費や
され、その日が終わればまた同じ日が繰り返される、そんな毎日の繰り返し。この
町で生まれ、この町で育ち、この町で土に還るのだ。
 まるで英国童話(マザーグース)の世界。私は宿を取り(近くの町に列車が通る為、
人の交通はゼロではないらしい)三日ほど滞在していたが、全くといって良いほど
時の流れを感じない。このままここの住人になれるものならばそれも良いかと思い
かけたが、残念ながら私にも多少なりとも祖国への未練があったのでそういう訳に
もいかなかった。
 ある日の朝、私はこの町をもう少し散策してみようと思い、宿を出た。霧が漂う
町の空は既に白んでいるが、日の出にはまだ幾分かありそうだ。私はあても無く
石造りの道を歩き出した。
 少しばかり小腹が空いたが、気にしないことにする。日本ならずともちょっと
した都会ならば見えるコンビニエンスストアの影もここには無い。雑貨屋が閉まる
のは日の沈む前。料理屋はもう少し遅いが、二十四時間働く店など有りはしない。
夜中に腹が減ったら自分で料理を作らねばならぬ。考えればそれが当然のこと
なのだ。
 少し歩くと、私は未だ明かりの消えぬ街頭のすぐ下で一休みする事にした。
煙草にマッチで火をつけ煙を吸い込む。煙草に関してばかりは日本製が口に合う。
外国製の紙巻き煙草はどうにも味気無く、そのくせ度がきつい。そんな物でも
吸わずにいられないのがニコチン中毒者の痛い所だ。
 霧に包まれた静寂の中、私は紫煙をくゆらせて目を閉じる。静かだ。明け方の
静けさは世界のどの町でも変わらぬようだが、霧が僅かな音すら吸い取って辺り
から空気の振動を消し去っている――そんな錯覚すら覚えた。
 と。
 その静けさを破るように、足音が近づいてきた。コツコツというような革靴の
音よりも柔らかな音。テンポからして走ってくる事が判る。
 やがて音と共に影が霧に浮かぶ。さて、霧の中から訪れしは狼男(ワーウルフ)か
首無し騎士(デュラハン)か、はたまたドッペルンゲンガーか。馬に乗っていない
からデュラハンではあるまいが。家を指差し『一年後に殺しに来ます』YOHO!
 くだらぬ妄想に自嘲すると、疾駆者は姿を見せた。
 残念ながらそれは魔物の類ではなく、単なる人間だった。年端も行かぬ小さな
女の子。長い金髪を靡かせ走って来る十歳かそこらの少女だった。こんな早朝から
何を急いでいるのか、息を弾ませ軽やかに走っていた。
 少女はそのまま私の前を通り過ぎようとしたが、ふとその小さな脚が止まる。
「あなた、だあれ?」
 ひどく不思議そうに、女の子は振り返る。黄金の髪が鈍く輝いた。
 日本人が珍しいのだろうか?その仕草に私は目を瞬く。確かにこの町で日本人に
会うことは滅多に無いだろう。となると私はこの娘の日本人印象第一号となる訳か。
あまり悪印象を与えたくはない。
「私かい?私は――」
 なるたけ紳士的な笑みを作ってそう言いかけた私は、ふと思いついて懐から
一枚の名刺を取り出した。
「私は、こういう者さ」
 名刺。いささか陳腐な方法ではあるが私という人間を端的に知ってもらうには
良い方法であるだろう。特に異国の子供には日本の名刺のデザインが面白いらし
く、おおむね好評だ。心配だったのはこの子が字が読めるかどうかということ
だったが、それは杞憂だったようだ。少女は長方形の一枚の紙をしげしげと
見た後、私の顔と見比べる。
「ふぅん……JUN?ていうの……?」
「そう。私の国で『ピュアー』という意味だ」
 いうと、金髪の少女は「まあ!」と笑って「とても素敵ね!」と手を叩いた。
「私はアムリエッタ。よろしく、Mr.ピュアー」
「よろしく。きみこそいい名前だね」
「ありがとう!」私が返すと、アムリエッタはにこりと微笑んだ。
「ところで、きみはどうして走っていたんだい?こんな朝早くから……」
「ああ――そうだったわ!大変、大変!」
 指摘された途端アムリエッタは電気に打たれた様に飛び跳ねて、足踏みを
始めた。
「何をそんなに急いでいるんだい、アムリエッタ?」
 再び走り出そうとした少女は、私のほうを向くと「え?えっと――あの、
あのね……」そう少し戸惑っていたがやがて顔を上げる。
「わたしね、これから天使を見に行くの!」
「ええっ!?」そのときの私は、さぞかし間抜けな顔をしていたに違い有るまい。
「天……使、?天使と言ったのかい?きみは今」
「そうよ!早く行かなきゃ見れなくなるの!ねえ――あなたも来る?Mr.ピュアー?」
 誰にも話したことの無い秘密を『特別に』こっそりと囁く時の子供の目。その
目に見据えられて私は少し迷ったが――すぐに首を縦に振る。彼女の言う『天使』
が何の事か知りたかったし、何故かこの少女に惹かれるところがあったからだった。


 私とアムリエッタは石畳の上をひたすら走った。朝の静寂を破る靴音が、一風
変わったハーモニーを鳴らす。私は彼女の後を追うが、とても子供と思えぬスピ
ードだ。私も体力にはそれなりの自信があったが、やはり環境と人種の差であ
ろうか。
 しかし彼女の行くルートはいささか不可解なものだった。
 小川のほとりに沿って往復していたかと思うと、時計台の文字をしばらく眺
め――公園の砂場で腕を組んで考え込み、花壇の花をひとつひとつ睨みつける。
「なあアムリエッタ」
「アン、て呼んで」
「じゃあアン。きみは一体どこへ行こうとしているんだ?」
「わからないの」
 路地の間を通って階段を跳び下り、アムリエッタは私を振り返った。
「何だって?」その言葉に、しかし私は思いがけない台詞に困惑する。
「ちょっと待ってくれアン!どういう意味だいそれは!?」
「だからぁ、そこを捜しているのよ」
「?よく判らないが……」
 息を切らして階段を下りる私に、アムリエッタは指を立てた。
「天使には好きな場所があるの。そこをつきとめなきゃ、天使を見つけられない
のよ!」
「ふうむ……例えば礼拝堂とかかね」
「違う。違う違う!」アムリエッタはぶんぶんと首を振って私の言葉を否定した。
「あそこは人が祈る所。天使とは無関係よ。
天使が好きな所はね、綺麗な所。水が流れる場所。力を持った場所。陽射しの輝く
場所、そういった所に現れるの。
でも、いったいこの町のどこにあるのか……」
「自分の町だろう?判りそうなものじゃないか」
「あら、わたし、この町は今日が初めてよ」
「そうなのか?」
 少し拍子抜けした。てっきりアムリエッタはこの町の娘と思っていたもの
だから。では私の方がこの町の先達ということか。
「日の出までにその場所を見つけなければいけないのに。このままじゃ天使を見れ
ないわ。
……ねえMr.ピュアー。あなた知らないかしら、そんな場所?」
「えぇ?」
 唐突に振られて私は戸惑う。だがしかし、ふと私の脳裏に『そこ』が浮かんだ。
初めてこの町に来たとき何時の間にか路地裏に迷い込んでしまい、偶然辿り着
いた場所。
 もしや――あそこなら?
 私は腕時計に視線を落とす。時間は……よし、まだ間に合う!すかさず私は足を
飛ばした。
「あ……?どうしたのピュアー?ねえ、どこに行くのよ!?」
 叫んでアムリエッタも私の後をついてくる。殆どうろ覚えだったが奇妙な衝動が
私を突き動かし、ほどなくそこへ辿り着いた。
「ここは……?」アムリエッタは怪訝そうに立ち止まる。
 そこは入り組んだ裏街道の奥にある小さな広場だった。周りを建物で囲まれ、
あるのは朽ちたベンチとちっぽけな噴水。水面には水草が浮かび、吹き出す噴水
口に蔦が巻きついている。
 静かに、誰からも忘れ去られたような――小さな広場だった。
「こ、ここは、どうだい……アン?」ぜいぜいと自らの膝に寄りかかりながら、
私は尋ねる。
 少女は辺りを見回し、それから噴水に近付いて何やら難しげな顔でその水面を
覗いた。その姿勢のままで考え込んでいるアムリエッタに「駄目か?」と訊こうと
したとき。
「ここよ、ここだわ!!」
 いきなりアムリエッタはあらんばかりの声を張り上げた。
 それから私の手を取って、ポルトガル系か何かの聞きなれぬ言葉で騒ぎ立て
ながら踊りだした。私の手を高く掲げてその下を潜り、そのままくるりと一回転。
そこまで終えると彼女は下を向いて興奮を押さえる様にふるえ、押さえきれずに
私の首筋に抱きついてきた。
「やったわ、Mr.ピュアー!ここが『天使の集う場所』よ!」


 それから、アムリエッタは大急ぎで『準備』とやらを始めた。噴水の周辺に
なにやらチョークらしきもので記号のようなものを数ヶ所記し、東西南北それ
ぞれに白い粉で小さな山を作った。質問するとアムリエッタは「企業秘密よ」と
答えた(後で判った事だがそれは単なる塩だった)。それから手を組んで頭(こう
べ)を垂れ、何事かを時間にして数十秒程度つぶやくと、私に笑いかけた。
「はい、準備オーケイよ!」
「……もう終わりかね?」
「ええ!後は待つだけ……静かにね」
 そう言って片目をつぶると、彼女は私の横に並んだ。
 程なく辺りの明るさが増していき――遂に太陽がその姿を現した。陽射しが
広場に差し込み、噴水の水が陽光を受けてきらめきだす。
 私はじっと、その光の中を見つめたが……何も起きる様子は無い。
「アン……」
 言いかけて、私は口をつぐんだ。アムリエッタの手が、私の腕を痛いほど強く
握りしめたからだ。彼女は「まだ」と言い聞かせるように、首を振った。
 私が肩を竦めた、その時。
 がらぁん!がらぁん!がらぁん!
 いきなり、鼓膜を破るような音が私の耳を突き抜けた。殴られたような衝撃を
受けてよろめきながら、私はそれを教会の鐘の音だと理解した。――だが、この町
の鐘は、ここまで巨大な響きだったか?
「……来るわよっ!」
 アンの呟きが私の耳に入った瞬間。
「pururuuu」「……to、pho!」「ruru――ruru――ru!」
 私の周りの空間に、そんな小さな鳴き声が聞こえ始めた。はじめそれは、あまり
に大きな音を聞いたための耳鳴りか何かだと思ったが――それは違った。
 そう。違ったのだ。
 何時の間にか私の周りに、私が見た事も無いようなものが飛び交っていた。
 『それ』はなんと形容したらよいのか……サイズは五センチから十センチ。
丸く、透き通ったような形に、手とも羽根ともつかぬようなものを生やし――淡く
輝き、ゆっくりと飛ぶたびに体に纏った光が尾を引いた。白いような、金色か銀色
か、あるいは虹色か、その全てを内包したかのごとき、かつそのどれにも属さぬ
ような柔らかな光。常に小さな掠れる様な声で鳴いて――否、『歌って』いる。
 数はゆうに五、六十か。いや、この状態で正確な数は把握できなかった。ただ、
私の視界中に散らばるほどいたのは確かだ。
 何なのだろう、これは――。私は我を忘れて傍観していた。
「どう、Mr.ピュアー?はじめて見た『天使』の感想は?」
 私を現実に引き戻したのは少女の呼びかけだった。
 同じ様に天使に囲まれているアムリエッタが、私に微笑みかけている。
「ああ?う、うん。いや、何と言うか、その……」
 私はみっともないほど動揺していただろう。言葉にならぬ言葉を、日本語のまま
に漏らす。当然だ。あんな状況では、どんな大詩人だろうとも何も言えなくなるに
決まっている。
「大声を上げたら駄目よ、逃げちゃうから」人差し指を口につけると彼女は小声で
言って、スカートのポケットを探る。
 取り出したのは、陶器製の小瓶だった。掌に握りこめる程度の、それはそれは
可愛い小瓶。少女は私に目配せして、そっと瓶の口に詰まったコルクを引き抜いた。
と、思う間も無く――ゆっくりと宙を漂っていた天使達が、「pyu!」だの
「houu!」だのと悲鳴をあげて――その瓶の中に渦を巻く様に吸い込まれて
いくではないか。
「え!?」
 口を開ける私をよそに、天使たちの半分以上を吸い取ると、アムリエッタはまた
コルクを閉める。瓶はぴたりと吸うのを止めた。
「そろそろ時間ね」アムリエッタは言う。
 その言葉どおりに、辺りを飛んでいた天使達が次第に、次第に消えていく。色が
薄れ、大気と同化するように。
「あなたは捕まえないの、Mr.ピュアー?」
 少女はせかすように私に言った。早くしないと、消えちゃうよ。
「え。あ……!」
 私はその言葉に後押しされて――数瞬前には考えもしなかったことだが――目の
前の天使を掴んだ。光の尾に指が掛かる。
 その体はやたらと柔らかく、そして暖かだった。
「ooh!」
 掴まれた天使はぷるぷるとその身を震わせ、もがいた。捕まえていれば消えない
らしい。
「ああ、それじゃ駄目よ。ちゃんとした物に入れないと」
 しょうがないわね、と彼女は首をかしげて私の側に来ると、自らの掌に口づけを
ひとつ。
 ぱんっ!
 音を立てて、私の捕まえていた天使を、私が巻いていた時計に叩きつけた。
まるで蚊か何かのように。アムリエッタが手をどけると、そこにはもう何も
無かった。
「さ、これで大丈夫。その時計に天使が入ったわ」
 アムリエッタはそう言って、私の腕時計を爪でコツンと弾いた。


 その後、私はアムリエッタとすぐに別れた。途中で道がお互いに別方向だった
から。理由はそれだけだ。
「じゃあね、Mr.ピュアー。あなたのおかげでたくさんの天使が手に入ったわ」
「……いいのかね?」
「あら、何が?」未だ呆け気味の私の問いに、アムリエッタは聞き返す。
「いや、だから……天使を捕まえたりして、その、罰(ばち)が当たったりはしない
のか、と」
「いいのよ」
 彼女は屈託の無い笑みを返し、続けた。
「だってわたし、魔女だもの」
「はあ!?」
「これ何に使うか知りたい?」小瓶をつまんでアムリエッタは言った。
「シチューの材料!」
「な……えぇっ!?」
「美味しいのよ?」叫んだ私に、彼女はいたずらっぽく笑う。「機会があったら
ご馳走するわ。時計を大切にね!」
 そこまで言うと彼女は振り返りもせず――道の向こうに走り去っていった。


                    *


 あれから、その少女にあったことは無い。無論、天使を見た事も。
 この話が本当か嘘かは諸君らがそれぞれの胸の内で決めればいい。ただあれから
私が持つ時代遅れのゼンマイ時計が、螺子を巻かずとも動き続けるようになったの
は確かな事だ。
 そして私は程なく日本に帰り、元の生活に戻った。だが今でも時々想いを馳せる
のである。
 あの小さな町の景色。
教会の鐘の音。
石畳の道。
不思議な少女との出会い。
あの語り尽くせぬ光り輝く眺め。
 そう、そして何よりも――『天使入りのシチュー』とはどんな味であるのか、
今でも気になってしょうがないのである。



〜天使ノ集ウ場所〜 FIN   SEE YOU AGAIN



・あとがき
元ネタは水木しげる先生の『ヒトダマのテンプラ』から。
もはや原形もなにもないですが。



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